今日は、「タバコを吸う人」に対して、話をしてみたい。
あなたにとって「心から美味しい」と感じて吸っている煙草は、1日に何本ぐらいあるだろうか。
「本当に美味しいタバコ」とは
・朝起きたとき
・食事の後
・トイレに入った時
・一仕事終えた後
等々
以上のように、せいぜい1日に5~8本位ではないだろうか。
(僕も、以前はたくさん吸っていたのでよく知っているつもりである)
大抵の人にとって、あとは
・癖で
・口寂しくて
・一人で車に乗ると
などといった、たわいもない理由なのである。
(1日数本のタバコであれば、僕は「ほとんど体に害は無い」と考えている)
例をあげてみたい。
現在、悲しい事に、福島第一原発の周囲では、その高い放射線量の為、立ち入り禁止区域が設定されてしまっている。
もし、その区域に入らなければならない「もっともな理由」例えば
・残してきた「ペット」が心配で
・大切な「アルバム」をどうしても手元に置いておきたくて
などといったものがある方ならば、たとえ規律を違反してでもそこに立ち入ろうとする行為に対して、誰もが理解できるであろう。
しかし「癖で」とか「寂しくて」ましてや「一人で車に乗ると」などといった理由で、その区域に入っている人がいたならば、どうであろうか。
誰もが「とりあえず、今は止めとけ」と言うのではないだろうか。
喫煙に関しても、この事と同様ではないだろうか。
もちろん僕は、本当に「美味しくて」そのタバコを吸っているのであれば、否定するつもりは無い。
人それぞれに、様々な価値観が有っていい、と思っているからである。
(都内では「年間数百人」もの方が交通事故により亡くなるが、僕は「便利だから」という理由で、毎日のように車に乗っている)
しかし、「癖」とか「寂しさ」を理由に能動的に、かつ、お金を払って発ガン性物質を吸っている人を見ると、それは何か違う気がしてしまうのである。
「癖」であれば、代わりに「大きく伸び」でもしてみたらいいかもしれない。
「車に乗ると吸いたくなる」のであれば「一人、車内でカラオケ」の練習でもしてみたらどうだろうか。
これは少々「お節介」な意見なのかもしれない。
しかし、医者は、他人の健康に関しては、少々お節介でも「いい」とも僕は思っているのである。
確かにタバコは美味しい。それゆえ止められない人が多いのもうなずける。
でも、だからこそ、本当にタバコが好きならば
その「美味しいタバコ」を吸い続ける為にも「いつまでも健康的であって欲しい」と、僕は考えているのである。
たとえ話というのは、分かりやすいというのは知っていました。
ただ、今日の記事を読むと、アナロジーのもう一つの正体は、客観視にもあるな、と。
禁煙を願っていながら、できない人は「タバコ」と考えると過剰な反応をしてしまうと思います。
罪悪感は心に異常なエネルギーをもたらすみたいですし。
こうした一種の離人作業を介入させることによって、自分と対話して、問題点をあぶりだすと、感情の「本当の理由」が分かる気がしてきました。
たとえば、喫煙をする → いつのまにか習慣になってしまった → なぜ習慣になったか? → 高校のときに友達に薦められて → なぜ、断れないか? → 過度の見捨てられ不安 → 条件付の愛を受けていた → 親も小さいころから成績が良いときだけ親から褒められていた
上はあまりにステレオタイプですが、タバコである理由を客観的に見つめるというアプローチが効く場合も多いでしょうね。
禁煙として思いつくのは、外来医学的アプローチ(あれ、確かに医療ですが、私はレコーディングダイエットに近いとも思っています。つまり、ペースメーカーがいる。監視がある)。
あるいは、アレンカーの禁煙セラピーはカウンセラーとして優秀で、文章も安心感を与える。
今回の記事のような、自分のために、そしておいしいタバコは禁止しない、という方法がマッチする人もいるでしょうね。
すみません、書いている間にどんどん取りとめなくなりました。
仕事の最中にたまにフラっと、このblogを、コーヒー飲みながら、読んでリラックスしたりしています。
次の記事、楽しみにしています。
手ごわいのは自分です。自分へのパーミッションをどう調整するか?
面白いテーマですね。
Marlboroさま
感情の「本当の理由」を探る為には「離人作業」なり「俯瞰点な視点」が必要なのは、私も同意するところです。ただ、実はそれができているかの確認方法が無い所に弱点が有ると考えています。自分へのパーミッションの調整に関しましては、やはり「ゴールの設定」につきるはずです。そしてその為にはやはり「的確な自分への質問」が不可欠なのでしょう。私ももっと深く考える必要があるようです。いつもありがとうございます。