プラセボのレシピ

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「守・破・離」から考える人間の本質

2019年01月25日 · コメント(0) · 学習、教育、子育て

古くから、武芸や武道の世界では師弟関係のあり方として「守・破・離」と呼ばれるものがあります。

まずは師の教えを徹底して守ることで型を身に着け(守)

次いでその型を自身の身体と照らし合わせながら改良し(破)

最後は自らが創造した価値観のもと型から離れる(離)

この「守・破・離」という言葉は、千利休の教えをまとめた「利休道歌」が由来のようですが、

現在では茶道や武道の世界だけでなく。教育やビジネスの場面でも活用されています。

「型があるから型破り、型が無ければ形なし」 

これは僧侶の無着成恭さんの言葉なのですが、これこそが芸道の本質なのかもしれません。

しかし、今一度、この「守・破・離」という言葉を眺めると、私にはとある疑問が沸き起こるのです。

まずは型を学び(守)、そこから自身に合わせた改良(破)を加える。

ここまでは、私もその通りだと思います。

しかし、もはや原型をとどめないほど破られた「破」もありえる中、なぜ、あえて「破」の先に「離」という概念を創る必要があったのか。

おそらく、そこには「離」を創らざるを得ない何かしらの事情が存在したはずなのです。

これは私の独断的な考えですが、「守・破・離」の「離」の対象は、「型」ではなく「師匠」だと思うのです。

なぜなら武芸や武道の世界では、弟子が一流になればなるほど多くの師匠は嫉妬をするからです。

ある時は「型にはまるな」と説教をし、またある時は「型を大切にしろ」と説教をする。

嫉妬の塊となった師匠は、こうして弟子を支配しようとするのです。

人間の嫉妬心ほどたちの悪いものはありません。

なぜなら、嫉妬をしている本人も、自身の気持ちに気がついていないからです。

そして、これは師匠の人格が未熟だからなのではなく、それこそが人間の特性なのです。

残念ながら、たとえ始めは尊敬できる師匠であったとしても、弟子がその相手を生涯に渡って尊敬できるかどうかの保障はないのです。

そのため過去の一流の武芸者や武道家は、「守・破・離」という概念を発明することで、上手に師匠との距離を取っていたのだと思うのです。

プラセボのレシピ:第358話

(毒親の心理も「娘の若さや可能性に対する嫉み」が基盤であるため、必要となるのは「離」という概念なのかもしれません。)

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